桜が美しいと感じ始めたのはごく最近のことだ。
並木に咲き誇る花たち…ああ、今年も咲いたんだね。
それ以上でもそれ以下でもなく、ただそこにある日々の移ろいの中に現れる情報のシグナル。キレイだね。
それまでは…
日本人がなぜこんなにも桜を大事にしてきたのだろう。
時期になると、木の梺で花弁の華麗さそっちのけで共に触れ合い語り賑やかに、酔狂に身をまかせる。
彼らは幸せそうだ。
再びこの時を迎えられたことを、心から喜んでいる様だ。
願はくは花の下にて春死なん – の頃から今に伝わる、様々なストーリー。
突き詰めると生の価値に関わっている。
そう、これは人そのものの願いなのだ。
それが少しわかったときに、初めて「桜とは美しいものだ」と思えてきた。と共に、愛おしくもなった。
春の訪れとともに咲き乱れる薄紅色の桜。
薄紅色の繁栄に酔いしれ、愛でるたくさんの人たち。
その場にある膨大な情報が統合されて、初めて美しいなぁ…と開花する意識。
心の中であふれた要素の絡みあいがソフィスティケートされ、新しい美の概念が宿った瞬間。
これはいわば、大人になるとわかるコーヒーの味みたいなものだ。例えが変なのを承知で。
肴と日本酒、ビールの喉越しの良さがわかるのはいつだろう。
…
美にはたくさんの意味合いがある。
地球上のすべての人が「exactly!!」と指させる美、実際はないんだと思う。
でも、どうしてだろう、よくわからないけどこれ気になるよね。不思議だ…惹かれる。
そんな直観があるのも事実。
論理的に表せないものだし、そもそもそんな事はしたくない。
僕はそんなものが何より好んでいる。シンプルに、素直に心の中で味わっていつでもうっとりする。
その心地よさな中にも桜の話と同じ様に繁栄や生、大袈裟に言うと永遠を願う根本ないし種に気づく。
そこから学び、倣い、更に盛り付けていく。やがて根は地表に顔を出し葉をつけ花を咲かし、実をこぼして死んでゆく。
また春に会いましょう。
あまりにも尊くて、美しい…
そんな仕組みを表す学問的な体系。世の中にたくさん確立されているけれど、そこで僕はたまたま黄金比を選んだ。そんなプロローグ。
どうぞよろしくね