前150年頃 → 後170年頃
盤に引かれる線 / 中心と赤道
理論の土台ヒッパルコスとプトレマイオス
誰が発明したのか。この問いには、答えが二つに割れて返ってくる。理論を作った人と、器具を記述した人が別なのである。
始まりは、球状の天球をどう平らな円盤へ写し取るかという、一見地味な数学の問題だった。ニカイアのヒッパルコス(前190頃から前120頃)は、天体の高度を測る視準儀(ディオプトラ)と、天球を平面に投影する技法を結びつけた最初期の人物とされる。平射投影の理論の起点は、ふつう彼に置かれる。
器具そのものも彼が作った、と言い切れれば話は早い。ただ、証拠がない。プトレマイオスが『アルマゲスト』で自ら使ったと記す観測器具は渾天儀であって、アストロラーベではない。今日の研究は、理論はヒッパルコス(前150頃)に遡るが、中世的な意味でのアストロラーベを最初に記述したのはおそらくアレクサンドリアのテオン(後375頃)だ、というノイゲバウアー以来の言い方に落ち着いている。
数学理論として体系立てて後世に残したのは、まぎれもなくプトレマイオス(100頃から170頃)だった。彼は『プラニスファエリウム』で、天球上の円をいかに平面へ投影するかという理論を整理し尽くしている。ところが、そのギリシャ語原典はほとんど失われた。断片を除けば、アラビア語訳とラテン語訳でしか現存しない。のちにこの器具そのものを育てることになる言語圏を通してしか、理論の全体像は残らなかった。
ここに数百年の空白がある。器具としてのアストロラーベを描写した最古の現存文献は、ヒッパルコスから数世紀も下った6世紀のヨハネス・ピロポノスまで待たねばならない。製作地としてよく挙がる4世紀から6世紀のアレクサンドリア、6世紀から11世紀のコンスタンティノープルも、現物が一点も残っていない仮説上の中心である。
後世の起源譚は、ほぼ作り話である。アラビア語文献には、プトレマイオスの天球儀が驢馬に踏まれて平たくなりアストロラーベになった、という逸話(イブン・ハッリカーン)や、発明者をイドリース(エノク)の子「ラーブ」とする説がある。デイヴィッド・キングはいずれも純然たる創作と切り捨てた。前者を「ニュートンとリンゴの話と同じくらい魅力的」と評しながら。後者は
asṭurlāb を
saṭr(線)の複数と読み、純アラビア語の語源を与えたい動機から出たもので、10世紀の百科事典編者アブー・アブドッラー・アル=フワーリズミーが同時代にすでに批判している。語源としては「星を取るもの」が言語的に正しい系統である。
335頃–405頃
盤に引かれる線 / 蟹座回帰線
アレクサンドリアのテオン失われた「最初の専論」
テオン(335頃から405頃)は、ヒュパティアの父であり、ムセイオン最後の一員として、エウクレイデス『原論』の編纂やプトレマイオス注釈で知られたアレクサンドリアの学者である。伝記資料によれば、彼はおそらく史上初めてアストロラーベそのものを主題にした著作を書いた。後世『小アストロラーベ論』と呼ばれることになる論考である。「小」がついているのは、当時「アストロラーベ」という語が渾天儀を指しても使われていたため、平板な器具のほうを呼び分ける必要があったからだ。
その論考は、ギリシャ語原典として失われている。奇妙なのはここからで、何世紀ものちのアラビア語圏の書誌学者たちが、実物を目にすることのないまま、テオンの名と業績を書き留め続けていた。原典が消えたあとも、名前だけがギリシャ語圏の外へ伝わっていったのである。
では、テオンが器具を発明したのか。それは行き過ぎだろう。投影の数学理論そのものはプトレマイオスが扱っており、実物がプトレマイオス以前に遡る可能性さえある。彼の功績は発明ではなく、器具の理論と使い方を初めて一冊にまとめたことにある。
関心を持ったのは彼だけではない。ほぼ同時代、キュレネのシュネシオス(373頃から414頃)も、ヒッパルコスが示唆しながらプトレマイオスら後継者が顧みなかった着想を自分が完成させた、と主張している。友人への贈り物として銀のアストロラーベを作らせ、使用法の論考まで添えた。器具も論考も現存しない。それでもこの逸話は、4世紀から5世紀のアレクサンドリア周辺で、この器具への関心がひとりの学者に留まらなかったことを物語る。
490頃–570頃
盤に引かれる線 / 板の縁(山羊座回帰線)
ヨハネス・ピロポノス現存する最古の専論
空白は6世紀に終わる。アレクサンドリアの神学者でアリストテレス注釈者だったピロポノスが、初期の著作として『アストロラーベの使用と製作について』を残した。今日まで伝わる、この器具についての最古の専論である。
彼はこれを、ニコマコス『算術』への入門書と並べて早い時期の仕事に数えていた。器具そのものへの関心は、当時のアレクサンドリアの学問世界でごく自然な入り口だったのだろう。そしてこの論考は、テオンの失われた著作に大きく依拠しているとされる。名前だけが伝わる原典の中身が、こうして間接的に、今も読める形で残っているわけだ。
記述の中に、その後千年以上使われ続けることになる二つの判断が現れている。ひとつは板の縁を山羊座回帰線に取ること。今日の標準型そのままで、この頁の背後に描かれている盤の外周もその円である。もうひとつは黄道傾斜角に24度という値を採ったこと。これは概数で、エウドクソスが傾斜角を正十五角形の一辺(360÷15=24)で表したことに由来するとみられる。板の縁の半径は傾斜角で決まる。この一つの数字の選択が、盤の大きさそのものを決めていた。
7世紀(661年以前)
盤に引かれる線 / 子午線と地平線
セウェルス・サボクトアラブ征服をまたいだシリア語の修道院
では、ギリシャ語の学問が細っていくあいだ、この器具の知識はどこにあったのか。ユーフラテス河畔の修道院にあった。
セウェルス・サボクト(セボフトとも音写される)は、612年までニシビスの神学校で教え、教義上の対立で職を辞したのち、ケネシュレ修道院の主教となった人物である。彼のアストロラーベ論は、661年に書かれた『星座論』の中で二度言及されている。したがって、それ以前の成立とわかる。シリア語で現存する唯一のアストロラーベ論であり、器具の各部を説明したのち、用途を「規則」に分けて論じていく。
その規則には、ローマ数字で
XXV(25)まで番号が振られている。よく引かれる「セウェルスは25の用途を数えた」という数字は、ここから来ている。ただし写字生が使った写本には一葉の欠落があり、規則XII、XX、XXIが失われた。現存するのは22規則である。校訂者のノー(F.
Nau)は脚注で「規則12も欠けている」と明記した。使い方の数を数え上げる習慣は、このあと千年続く。その第一項が、すでに欠けている。
彼自身、この論考が無から生まれたのではないと明記している。プトレマイオスを名指しで引用する一方、それとは別に「哲学者」とだけ呼ぶ先行者の仕事に依拠した、と述べているのである。この匿名の人物について、天文学史家オットー・ノイゲバウアーは、アラビア語書誌資料がプトレマイオス著とテオン著の作品をしばしば混同している状況証拠を突き合わせ、テオンである可能性が高いと結論づけた。セウェルスのシリア語論考こそ、テオンの失われた原典に最も近い形で残る痕跡だ、というのが定説的な見方である。
そして、これは孤立した営みではなかった。ケネシュレ修道院とキプロス島のシリア正教会共同体とのあいだで交わされた学術書簡が今も残っており、そこにはインド数字の最近の伝来、『アルマゲスト』、プトレマイオスの『地理学』、そしてアストロラーベが、当時最先端の話題として並んで登場する。セウェルスはキプロスの同僚バシレイオスと、現役の科学者同士として活発に文通していた。
内容も、後世が「アラビア語圏の達成」と考えがちなものを先取りしている。規則XIVは二都市の経度差を月食や日食で決める手順を与え、両都市で同時に中天の度を取り、一方の結果を他方へ送れ、と使者による伝達まで書く。規則XVは1時間を15度と明記し、カルタゴが3時のときアルベラは6時、という作例を置く。七百年後のチョーサーが経度を定義するだけで手順を書かずに終えた問題に、7世紀のシリア語がすでに答えを持っていた。
規則VIIとVIIIは、器具そのものが正しく作られているかを検査する手順である。プトレマイオスの数表から出した値と器具の読みを突き合わせ、2度から3度ずれれば器具が悪い、と判定する。この規則の結びがいい。
同じ数が得られなければ、数表かアストロラーベのどちらかが悪く作られていると結論せねばならず、我々は両方を検査する。なぜならプトレマイオスの数表はアストロラーベに拠って作られたのだから。
ノー校訂の仏訳(1899)p.96 より要約引用
表と器具は、競合する二つの解法ではない。互いを校正し合う関係にある。理由づけまで書いてある。数表そのものが器具に由来するのだから、と。器具を検査するこの領域は、のちにアル=スーフィーが二十章に膨らませ、そしてラテン語へ訳されるときに丸ごと消える。
659年、彼はムアーウィヤの面前にいた。ヤコブ派総主教に付き従い、後の初代ウマイヤ朝カリフとなる人物の前で神学論争に参加している。ギリシャ科学の伝統は、アラブ征服が進行するその瞬間まで、シリア語圏の修道院と神学校(ニシビス、ケネシュレ、後にはグンディーシャープール)で連続的に教えられ続けていた。8世紀に起きたのは無からの誕生ではない。すでに成熟していたこの学統が、新しい政治的後援のもとでアラビア語へ引き込まれた、という出来事だった。
「わが霊の子よ」。セウェルスは本論に入る前、読者である弟子にこう呼びかける。「学を愛する友よ、主にありて我らが霊の子、愛しき者よ……規則ごとに分けて示そう。読む者が、一つずつ容易に覚えられるように」。七百四十年後、チョーサーは「小さな息子ルイスよ」と実の子に呼びかけて、同じ形式の書物を書く。血の子と霊の子の違いはある。それでも、宛先への語りかけも、問いと手順に切り分ける構成も、そう分ける理由の説明までが、ジャンルの最初の一冊にすでにある。
引くときの注意が二つある。ひとつ、ガンサー『世界のアストロラーベ』(1932)に収められた英訳は、ノーの仏訳からの重訳で信頼できない、と近年の研究が明言している。セウェルスを引くならノーの仏訳から引くこと。ふたつ、セウェルスは最古だが最良ではない。月の黄緯を無視した位置決定(規則V)、二回の観測に半年の間隔を要してしまう二都市比較(規則XIII)、作例の計算違い(規則XVI)など、校訂者と後代の研究者が具体的な誤りを指摘している。年代の価値で引き、正確さの典拠にはしない。
8世紀、マンスール治世
盤に引かれる線 / アルムカンタール(高度円)
アラビア語への本格移植アル=ファザーリー父子とマーシャーアッラー
引き込んだ側にも、名前がある。
イブラーヒーム・アル=ファザーリー(777年没)は、アッバース朝カリフのマンスール(在位754から775)の宮廷に仕えた天文学者である。「アストロラーベについて」「渾天儀について」といった著作を残している。彼と息子ムハンマド・イブン・イブラーヒーム・アル=ファザーリーには、もう一つ大きな仕事があった。ヤアクーブ・イブン・ターリクとともに、マンスールの命でインドの天文書(ブラフマグプタ『ブラーフマスプタシッダーンタ』)をアラビア語に翻訳し、771年から773年頃にバグダードで『シンドヒンド』として完成させている。インドからの使節がもたらした天文書が、直接の契機だったと伝えられる。イスラム世界のアストロラーベ伝統は、ギリシャからシリア語を経る一本道ではない。同時期に流入したインド天文学とも撚り合わさっていた。
もう一人の鍵になる人物が、アッバース朝宮廷に仕えたペルシャ系ユダヤ人占星術師マーシャーアッラー・イブン・アサリー(740頃から815)である。彼が著したアストロラーベ論は、後にラテン語圏で「メッサハラ」の名のもとに広く読まれた。数世紀後、チョーサーが息子のために書いた論考の主要な典拠になる。もう一つ、若き日の彼は、ペルシャ人占星術師ナウバフトらとともに、マンスールの命でバグダード建都(762年)の吉時選定にも参加している。この都市の誕生の瞬間を占星術で選んだ学者たちが、そのままこの都市のアストロラーベ伝統を根付かせた。出来すぎなほど象徴的なつながりだ。
誰が「最初」かは決めがたい。アストロラーベを最初に製作したムスリムとしてアル=ファザーリーの名が挙がるが、父イブラーヒームとする伝承と息子ムハンマドとする伝承が並存しており、史料の側ですでに父子が混同されている。「アラビア語で最初のアストロラーベ論」も、マーシャーアッラーとアル=ファザーリーの両方に帰される。さらに、チョーサーの典拠となったラテン語「メッサハラ」論も、現在では製作編と使用編で由来が異なり、使用編は11世紀コルドバのイブン・アッ=サッファールに遡るとみるのが有力で、マーシャーアッラーのアラビア語原典そのものは失われている。この時期の「最初」はどれも、確定した事実ではなく伝承として扱うのが安全だ。
750年頃–850年頃
盤に引かれる線 / 不定時線
なぜこれほど盛んになったのか実務と政治、二つの層
実務と宗教の面での理由は分かりやすい。太陽と星の運行に応じて日々変化する五回の礼拝時刻を算出し、どの土地からでもメッカの方角(キブラ)を知る必要があった。とりわけ礼拝時刻はこの器具の得意分野で、多くのイスラム式アストロラーベには、薄明の始終やアスルの影長といった礼拝の節目を示す曲線が盤面に直接刻まれている。
では、キブラも器具が出してくれたのか。そうではない。厳密な算出は球面三角法を要する別種の問題で、こちらは近似公式と数表、あるいは器具の背面に添えられた地名表(都市の座標とメッカの方向を記したもの)が受け持った。器具が計算を代行したのは、主として時刻のほうである。
背後の盤にいま描かれた、地平線の下を扇状に走る曲線が、その時刻の正体である。昼の長さを十二等分した不定時法の時間で、季節と緯度によって一時間の長さそのものが伸び縮みする。太陽の対点をこの曲線群の上に載せれば、いま何時かが直接読める。昼夜を24等分する定時法が普及するのは、ずっと後のことだ。この盤が答えていたのは、近代的な「何時何分」ではなかった。
だが、これだけでは、なぜこれほど組織的かつ大規模に翻訳と研究が進んだのかを説明しきれない。天文学史家ディミトリ・グータスの研究が示すのは、もう一段深い政治の層である。通俗的には「マアムーンの知恵の館がすべての起点」と語られがちだが、この翻訳運動はマアムーンよりずっと前、マンスールの治世にすでに始まっていた。その根底には初期アッバース朝の帝国イデオロギーが色濃く関わっている。
750年のアッバース革命で都がダマスカスから新造のバグダードへ移されると、政治文化の環境は一変した。ビザンツに近接していたダマスカスとは異なり、イラクの人口構成はアラム語(シリア語)を話すキリスト教徒とユダヤ教徒、そしてヘレニズム化したペルシャ語話者という、まったく異なる混成体だった。そしてアッバース朝は、ササン朝ペルシャの先例を直接に模倣する。あらゆる叡智は本来ゾロアスターの聖典に含まれていたが、アレクサンドロスの征服で散逸したので取り戻すのだ、という翻訳イデオロギーを、革命を支えたペルシャ系勢力への正統性確保の道具として取り込んだのである。翻訳運動は、純粋な知的好奇心である以上に、新王朝の政治的自己正当化の装置として始まった。それがグータスの見立てだ。
9世紀前半、マアムーン治世
盤に引かれる線 / 方位円
バグダードで理論になる知恵の館、フワーリズミー、そしてファルガーニー
事業を担った人材も多宗教の混成だった。翻訳者の多くは、ビザンツ正教から異端として疎まれていたキリスト教徒たちであり、高い報酬で雇われている。マアムーンが翻訳者フナイン・イブン・イスハークに、翻訳した書物と同じ重さの金を支払ったという半ば伝説的な逸話は、この事業がどれほど重んじられていたかを物語る。流れが制度として結実したのが、828年に天文台まで併設されたマアムーン期のバイト・アル=ヒクマ(知恵の館)である。ただし現代の研究は、ここを固定した学部を持つ近代的な大学のように描くのは誤解を招く、とも指摘する。実態には慎重な留保がいる。
アストロラーベに関して言えば、この世紀の成果は二人の名前に集約できる。ひとりは代数学のフワーリズミー(780頃から850頃)で、彼に帰されるアストロラーベ使用法の論考が現存し、近年になって校訂され刊行された。帰属をめぐる議論は残っている。
もうひとりがアル=ファルガーニー(850年頃)である。彼の全7章の論考は、立体投影の理論(三定理)、天球上の円が平面上で円か直線になること、盤上の円の半径と中心位置の計算法、作図用の数表の編纂、北方アストロラーベの作図、南方アストロラーベの作図、そして自分の方法こそ唯一正しいという主張、という構成をとる。ここに含まれる基本定理の証明が、立体投影について現存する最古の証明である。ギリシャ語圏は「円は円に写る」という性質を使ってはいた。ただ、証明を残さなかった。9世紀のバグダードで、この器具は初めて完全な理論を持つ。
同姓の別人に注意。語源説をめぐってしばしば引かれる『諸学の鍵(マファーティーフ・アル=ウルーム)』の著者アブー・アブドッラー・アル=フワーリズミーは10世紀の百科事典編者で、代数のムハンマド・イブン・ムーサー・アル=フワーリズミー(9世紀)とは別人である。「ラーブの線」説を批判したのも、アストロラーベを「太陽の鏡」と結びつける語源を伝えたのも、前者のほうだ。
9世紀半ばのバグダード
盤に引かれる線 / アルムカンタールの細分
工房という系譜ハフィーフと、師から弟子へ渡された手
理論の系譜とは別に、金属を削る手の系譜がある。書誌学者イブン・アン=ナディームの『フィフリスト』からは、9世紀バグダードのアストロラーベ工房の師弟関係が、ほぼ切れ目なく辿れる。イブン・ハラフ・アル=マルワルーズィー(830年頃)、その弟子アリー・イブン・イーサー、そのまた弟子のハフィーフ(850年頃)、さらにその弟子ビトゥルス(ナストゥルスとみられる)、その弟子アル=イジュリー、そしてその娘。四代にわたる連鎖である。
系譜の頂点にいるアリー・イブン・イーサーは、マアムーンが子午線1度の長さを実測させたシンジャール砂漠の測量に起用された三名のひとりだった。宮廷の観測事業と器具の工房は、同じ人間を共有していたのである。弟子のハフィーフについては、天文学者イブン・ユーヌス(1008年没)が忘れがたい評価を残している。論証科学におけるプトレマイオス、医学におけるガレノスに相当するのが、アストロラーベ製作におけるハフィーフである、と。
そのハフィーフの器具が、思いがけない経路で見えるようになった。16世紀フィレンツェの建築家アントニオ・ダ・サンガッロ(小)が、手に入れた一台を克明に写生し、「エジプトのアストロラーベ、表と裏」と自筆で書き添えていたのである。1998年、ジョージ・サリバがこの素描の刻字と星の配置を、オックスフォード科学史博物館に現存するハフィーフ作の一台と照合して同定した。素描のレーテには17個の星指標があり、シリウスとプロキオンが東方系ではなく西方アラビア名で記されている。裏面の暦環は明らかに書体が劣り、後にアンダルシアで増設されたものと判る。9世紀バグダードで作られ、イベリアで書き足され、16世紀フィレンツェで写され、20世紀に同定される。一台の器具に、五つの層が重なっている。
10世紀のバグダードとアレッポ
盤に引かれる線 / 薄明の弧(伏角18度)
実物の開花ナストゥルスと、真鍮に刻まれた最初の年号
紙の上の理論は、いつ金属の上で完成したのか。年号の入った現物が、一台だけそれに答える。
製作年の銘をもつ最古のアストロラーベは、ナストゥルス(バストゥルス、ビトゥルスとも読まれる)がイラクで製作した真鍮製のものである。ヒジュラ暦315年、西暦927年から928年にあたる年号が刻まれている。クウェートに伝わるこの器具は、盤が緯度33°と36°用の一枚きり、背面には四つの象限目盛と影目盛をもつ。簡素だが、端正な作りだ。ナストゥルスは9世紀末から10世紀初頭のバグダードで活動した天文学者であり職人でもあった。それに先立つ893年から894年(ヒジュラ暦280年)には、日月食の時刻と経過を計算するために自ら考案した盤も製作している。背面に日付から太陽の位置を引くための暦目盛を初めて入れたのも、彼の周辺とみられている。
ただし「最古」の意味には注意がいる。年号のないアッバース朝期の器具は、これより古いものがいくつも残っている。前項のハフィーフのオックスフォード品がその代表格である。しかも、数百から数千は作られたはずの初期のアストロラーベのうち、800年から1100年のあいだのものは、東方イスラム圏で二ダース程度しか現存しない。今日見えているのは、失われた大量の実物が落とした影のようなものだ。
名の残った女性職人を、系譜の中に置き直す。10世紀のアレッポに、女性のアストロラーベ製作者がいたと伝えられる。今日「マルヤム・アル=イジュリーヤ」の名で紹介されることが多いが、手元の一次資料の抜粋(イブン・アン=ナディームの家系図)に現れるのは「イジュリーの娘イジュリーヤ、ビトゥルスの弟子」という形である。短い一言の言及しかなく何も分からない、としばしば書かれてきた。しかし前項の工房系譜と突き合わせると、彼女の位置ははっきりする。ハフィーフの孫弟子筋にあたり、父も同じ工房の職人だった。器具そのものも、設計上の功績を語る同時代史料も残っていない点は変わらない。それでも、孤立した例外としてではなく、四代続いた工房の最後に名の残った一人として置くほうが、史料に忠実である。
アストロラーベは航海用の器具ではない。大航海時代の船で使われた「マリナーズ・アストロラーベ」は、名前を借りただけの別物である。投影図も盤もレーテもない、単に天体の高度を測るための重い環にすぎない。本来のアストロラーベは、揺れる甲板の上ではまるで役に立たない。もうひとつ付け加えると、この器具だけで惑星や月の位置は出せないし、ホロスコープも引けない。暦表が別に要る。
10世紀のライとシーラーズ
盤に引かれる線 / 縁の度目盛
数え上げる人アル=スーフィーと、膨張した「使い方」
数え上げられた用途の数は、ここで跳ね上がる。
『恒星書』の著者として名高いアル=スーフィー(903年から986年)は、ブワイフ朝イランのライとシーラーズで活動した。アンダルスではなく東方である。彼はアストロラーベの使用法について、生涯に三つの別々の書物を書いた。異本ではない。成立順に、約400章の版、全16巻1760章という膨大な版、そして最後にそれを170章へ絞り込んだ版である。第二版は後半8巻816章しか残っておらず、その本文は今日まで一行も刊行されていない。長く混乱していた「アル=スーフィーの章数」の食い違いは、この三本立てで説明がつく。
最終版170章の内訳が面白い。日周運動に17章、星の出没に15章、赤経と緯度に20章。そして器具の検査に20章、占星術のタスイール(進行法)に16章、二都市間の距離の決定に5章、礼拝時刻に4章。セウェルスが2規則で済ませた検査は、ここで一つの分野に育っている。それ以前のアラビア語の使用法論はいずれも50章未満だった。彼はジャンルの分量を、一気に八倍にしたことになる。
彼はまた黄道傾斜角を自ら実測し(969年から970年)、そのうえで最終版には値を書かないことにした。傾斜角は時とともに変化するのだから、将来の読者が自分の時代の値を入れられるように、という理由である。数値ではなく、数値の入る場所を残す。ピロポノスの24度も、プトレマイオスの23°51′も、それぞれの時代の刻印にすぎない。そのことを、10世紀の著者自身が意識していた。
「千の使い方」という数字について。アル=スーフィーを紹介するとき、1000通りの用途を数えた、という数字がよく使われる。追いかけると、これは1976年に出たアンリ・ミシェルの一冊の86頁の、一つの文に行き着く。しかもその文は人名を「ジャービル=アル=スーフィー」と混成しており、写本を実見した研究の挙げる数字(約400、1760、170)のどこにも1000は現れない。ついでに言えば、「セウェルス25、フワーリズミー43、ブランデヴィル64、クラウィウス103、そしてスーフィー1000」という、しばしば独立の記録の集積のように引かれる数列は、その全部が同じ一頁からの一続きの引用である。数え上げられた数そのものが、校正されないまま伝わってきた。
読まれなかった達成。アル=スーフィーのアストロラーベ三論考は、現存写本がわずか9点、所在はイスタンブルとパリとサンクトペテルブルクのみで、ラテン語訳もペルシア語訳も存在しない。同じ著者の『恒星書』が各国語に訳され写本も多数残っているのと、あまりに対照的である。もっとも、これは影響がなかったことを意味しない。先行知識をここまで集成した仕事があったからこそ、10世紀末から11世紀の、さまざまな投影法を検討する幾何学的研究が可能になった、とも評価されている。
11世紀トレドから14世紀アレッポへ
盤に引かれる線 / 黄道環と十二宮
緯度から自由になる試みアンダルスの万能アストロラーベ
標準型には、原理上どうしても消せない不便がある。投影の中心が天の極である以上、地平線や高度円の図は観測地の緯度ごとに違ってしまう。旅をするなら、緯度ごとの盤を何枚も持ち歩かねばならない。
11世紀のトレドで、この制約そのものを外す試みが立て続けに現れた。アリー・イブン・ハラフは1071年、トレドの君主アル=マアムーンに献じた「万能アストロラーベ」(ラーミナ・ウニウェルサル)を考案する。同時代のアル=ザルカーリー(ラテン名アルザケル)も、赤道の極ではなく春分点を投影中心に取る「サフィーハ・シャッカーズィーヤ」を作り出した。ただし、ただで手に入るものではない。緯度ごとの盤を捨てる代わりに、読み取りの手続きは格段に複雑になる。万能性と使いやすさの取引である。
イブン・ハラフの論考のアラビア語原典は失われた。二世紀のち、カスティーリャ王アルフォンソ10世の『天文知識の書』に古カスティーリャ語訳として収められ、そのまま今日まで伝わっている。イスラム世界側でこの発想を極点まで押し進めたのが、14世紀アレッポのイブン・アッ=サッラージュである。1328年から1329年の彼の五重の器具は、あらゆる意味で緯度に依存しない万能器として、これまで作られた最も洗練されたアストロラーベと評される。この系統の到達点にあたる。その校訂本は、1975年以来ずっと準備中のままである。
もうひとつの万能があった。南半球の盤である。ドーハのイスラーム美術館が持つ一台は、オスマン朝の外殻に11世紀アンダルスの盤7枚が収められている。そのうちの一枚に「赤道の南、後ろ側」と記されたものがある。南緯16;30°用で、地平線が北緯用とは逆に下へ凹み、礼拝時刻の曲線までそのまま刻まれている。この緯度は、プトレマイオス地理でいう南半球第一気候帯の中央、すなわち有人世界の南限にあたる。対応する北緯72°の盤(アンダルス製の現存例がある)と組めば、当時知られた世界の南北両限をカバーする器具になる。器具史上ほぼ唯一の、文字どおりの普遍主義の実装だった可能性がある。
10世紀末 → 14世紀
盤に引かれる線 / 星の指標(レーテ)
ヨーロッパへアンダルシアを経由して、二段階で
伝播は一度ではなく、二段階で起きた。最初の接触は10世紀末のカタルーニャである。アンダルスとの境界に位置するリポイ修道院あたりを舞台に、アラビア語文献から取られたラテン語最初期のアストロラーベ論が現れる。ただしこの段階の知識は地理的にも量的にも限られており、器具そのものはまだ珍奇な舶来品だった。
全域への広がりをもたらしたのは、その約二世紀後である。イスラム支配下のスペインとシチリアを経由した、12世紀のラテン語翻訳の大波が起きた。マーシャーアッラーの名を負うアストロラーベ論も、プトレマイオス『プラニスファエリウム』も、このときラテン語に入る。そこから俗語へは二筋に分かれた。1277年、アルフォンソ10世の宮廷が古カスティーリャ語で『天文知識の書』を編む。1391年、チョーサーが十歳の息子ルイスのために英語で『アストロラーベ論』を書き始め、そして書き終えなかった。
渡るときに落ちたものもある。礼拝時刻とキブラの章は、必要がないので消える。器具の検査という一分野も、セウェルスからアル=スーフィーへと東方で膨らみ続けた末に、ラテン語と俗語の系統へは渡らなかった。南半球の盤も渡らなかった。そして、チョーサーがイブン・アッ=サッファールの三十四章という細い流れを選んだために、同時代のアラビア語圏が持っていた占星術技法の大半も、彼の本には入っていない。何が運ばれたかと同じくらい、何が落ちたかにも系譜がある。